2019年 12月 28日
天津中国人徴用工紀念館について |
2019年12月18日(水)北京から天津に新幹線で向かい、天津駅から天津市烈士陵園在日殉難烈士労工紀念館に向かった。タクシーで天津郊外の北辰区鉄東路まで30分程の距離である。地下鉄の最寄り駅は、5号線の「丹河北道」駅から徒歩30分である。
守衛所で参観を申し出ると、誰の紹介か、事前の予約はあるのかと問われて、戸惑ったが、主旨を伝えると、女性職員が迎えにきてくれて、紀念館に案内してくれた。そこで、2015年に発行された記念館を紹介するバンフとDVDを頂いた。記念館パンフ(中文)とDVDから、紀念館の開設経緯と主な展示内容を紹介したい。
尚、紀念館は常設の公開展示館ではないようで、事前に訪問の意向を申し出て、許可を得て、参観できる展示館のようだ。尚展示解説はすべて中国語だった。
今回、パンフにE-mailアドレスとしてtjlsly@163.comが記載されていた。事前にメールで参観する旨を伝えることをお勧めする。
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【展示館概要】
天津市烈士陵園在日殉難烈士労工紀念館は、1955年6月最初に現北辰区北倉に建設された。1971年水上公園に移転し、1975年8月水上公園に天津市烈士陵園内に抗日殉難烈士紀念館が再建され、建設面積は237平方メートル、園内に抗日殉難烈士の名簿碑が建てられた。碑に日本各地135ヶ所の作業所で殉難した6723名中国徴用工の名が刻まれている。また抗日殉難烈士を紀念する彫造が建てられた。これは、日本華僑中日友好促進会が60万元を出資し建てられた。
2005年天津市委員会、市政府は天津市烈士陵園の再建を決定し、外環線鉄路交口に100ヘクタール、建築面積8000平米メートルの烈士陵園を新築し、そのなかに在日殉難烈士労工紀念館建築面積を1352平方メートルとし、展示館を二階建てで建設されることとなった。1階は、遺骨館とし在日殉難烈士と徴用工遺骨2316柱が安置されている。2階は、展示館として『日本における血と泪—日本の中国人徴用工』を展示している。この展示は、大枠として中日双方の協力によって編集された。2005年11月以降今日まで、友好的な日本人、日本華僑促進会など多く方が天津を訪問し、展示陳列、資料蒐集、双方における協力態勢などを共同で研究し、合わせて中国人徴用工の在日殉難の資料を提供し、歴史を正視し、後代を教育する展示を行っている。
【はじめに】
抗日戦争勝利70周年という適宜に日本軍国主義者によって連行され、日本で苦役を強いられ、迫害の限りを受けて異国異郷の地で惨死した殉難同胞の遺骨が永眠する地————在日殉難烈士労工紀念館が、挙行した「第二次大戦における日本の中国人徴用工史実展」の目的は、亡くなった者への回想であり、民族がかつて遭遇した悲惨な歴史を回顧するものであり、我々に祖国とアジアの未来を思い巡らす機会となった。国家と民族の屈辱の歴史を理解し、日本軍国主義が中国人戦争捕虜を野蛮な奴隷労働に従事させた残酷な事実を明らかにし、中国人の死んで屈しない反抗精神を学ぶことは、決して仇敵や恨みを深めるためではなく、過去の経緯から教訓を引き出し、良好な日中関係の建設に資し、歴史の悲劇を繰り返さないためである。
今日、一部の日本の政治家は、歴史を誤って解釈し、過去に発動した侵略戦争を美化し、南京大虐殺などの侵略事実を否定する如きは、アジア戦争の被害者の感情への二次的加害である。この度の史実展は、日本の歴史修正主義者への警告であり、同時に我々が熱望する友人達のもつ歴史を正視し、不断に闘う日本民衆との連帯感を表出するものである。歴史を鏡として未来を切り開く。今回の史実展の目的は、中日世代友好の基礎を強固にし、この展示を通して両国人民の過去の歴史に関する共通認識を作り出す一助になれば、法外の喜びである。
林伯耀
【展示館の主題紹介】
〜日本における血と泪〜中国人日本殉難烈士・徴用工を紀念する。
2015年、中国人民は抗日戦争・反ファシズム戦争勝利70周年にあたる。まさに消え去ろうとする群像————二次大戦で日本に拉致され苦役を強いられた中国人徴用工を展示した。
ひとりの老人のいきいきとした身体に近寄り、その深く耐え難い時代の痕跡を仔細にみてみよう。当時の繰り返される苦難と屈辱の青年徴用工のことを、生きながらえながらもひたひたと迫り来る晩年に、彼らは老年者特有のことばをもって、一言一言はっきりと彼らの往時の屈辱的な奴隷労働を語り述べた。
歴史はゆっくりと長い道のりを辿る。七十年という歳月はあっという間に過ぎ去ったが、しかしある記憶は、我々にとって忘れることのできないことであり、歴史を忘却することは、人道に背くということを知らなければならない。
【二階展示館の紹介】
一、日本の中国人強制連行
1931年、柳条湖事件以降日本帝国主義は、偽満州国を武力をもって建国した。中国東北部の経済資源を掠奪し、軍事プロジェクトを推進し、「戦をもって戦を養う」策略を実行し、多数の労働者を徴発するため、「偽満州労工協会」を「華北労工協会」に改めた。
1941年太平洋戦争の勃発後、日本は国内の重労働に従事する人員を補充するために60万人余の朝鮮人を継続使用し、中国人捕虜と市民を日本に連行し、国内労働に従事させることを決定した。1943年4月から1945年6月までに約4万人の中国人男性青年を日本に強制送致した。
二、死線をさまよう危険な労働
中国人38935名は、日本に強制送致された後、日本の35企業に所属する押収使役所で高い労働強度の高度に危険な作業に従事させ、その内訳は、土木建築業15社63ヶ所15253人、鉱山業15社47ヶ所16368人、港湾埠頭積卸業1社(戦時、軍による一括管理)21埠頭、6099人、造船業4社4ヶ所1215人。中国人徴用工の生死は、完全に日本政府と企業の手中にあり、終日死線をさまよう労働であった。
三、生命の尊厳を駆けた各種の抗争
日本軍国主義者は、中国人徴用工をまな板にある者の如くに見て、やりたい放題に搾取した。生死に関わる脅しによって一人ひとりの被連行者の自由が奪われていく。彼らの生死は、予期できず、危険が目前に迫りつつあった。しかし中華民族は、同じの自らの敵に対しては、血をもって闘う勇気をもっていた。飢餓に抗って生き、迫害に抗って尊厳をあがなった。中国人による各種各様の巧妙な闘いが、止まることなく続けられた。
日本送致前の主要な反抗形態は、逃亡である。最も有名なのは、塘沽と青島の労工収容所における四次にわたって成功した組織的逃亡闘争である。日本本土における反抗闘争は、ストライキ、サボタージュ、逃亡、秘密裡の党支部建設、悪漢を排除する闘いであり、最も著名なのは「花岡暴動」である。
四、徴用工の帰還と遺骨返還活動
日本の投降以降、中国人徴用工の苦役は終結し、戦勝国の国民としての身分で自由を回復した。数ヶ月後続々と船で日本を離れたが、その大多数は、塘沽に上陸し、郷里の国に戻った。返還された徴用工の遺骨は、当時の天津北洋大学に安置された。新中国成立以降、日本の各界友好人士は中国政府の日本孤児の日本帰還に対する謝意として、華僑とともに日本各地の中国人徴用工の遺骨を9次にわたる祖国返還をすすめ、現在ここ天津烈士陵園内に安置されている。花岡徴用工は、国際戦犯裁判法廷に出廷し、日本の罪状を証言し、1948年前後に次々と帰国した。極小数の徴用工は、日本に残留し華民となり、中国人徴用工として当時山深く逃走した劉連仁は洞穴生活を13年続け、1958年救助され帰国した。
五、両国民間人による徴用工問題に関する調査と記念
日本の投降後、その侵略罪状は徹底的清算が行われなかった。20世紀7〜80年代、日本の右翼勢力が台頭し、南京大虐殺の歴とした史実を否認したり、歴史教科書において、中国への侵略戦争の性格を否認したり、中曽根康弘首相が国家元首の名で、日本のA級戦犯を合祀する靖国神社に公然と参拝するなどが引き起こされた。この反動的な逆流は、直ちに日本の平和愛好人士と、愛国華僑、被害国国民の大きな関心を引き起こした。この期間に、在日華僑林伯耀さんが数次にわたり、日中両国を駆け回り、多くの方と連絡をとり、新たな局面を切り開き、共産党中央連絡部が中国徴用工問題に関する全面的な調査研究と解決の道を探る運動に着手することとなり、アジアと欧米各国に影響を与えた。
六、日本企業の謝罪碑と賠償
戦時連行徴用工を使役した日本企業は、戦後20社だけ存在し、鹿島花岡訴訟が提訴されて以降、これに伴い花岡事件を含む提訴が15件起きた。2000年11月29日、鹿島花岡訴訟が終結、2009年19月23日西松安野訴訟の和解が終結、2010年4月26日西松信濃川訴訟の和解が終結と続いた。大江山訴訟は企業側が謝罪することなく5名の原告に部分的賠償金を払い和解した。その他の訴訟案件は等しく日本の法廷では却下されている。却下の根拠は、日本の1972年日中共同声明に関する条文の曲解及び不法かつ過った引用にある。
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尚、花岡暴動及び花岡事件に関する訴訟及び和解に至る経緯について、当ブログの以下のURLを参照ください。
https://inmylifeao.exblog.jp/30563192/
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by inmylife-after60
| 2019-12-28 17:58
| 中国訪問記
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