香港・深圳・澳門訪問記
京基100ビル(40階)からみた深圳市内
今回の訪問動機は、米中貿易戦争の震源である新興企業「華為」発祥の地、深圳に行くことであった。
深圳は、1978年改革開放に伴い、厦門(アモイ)とともに最初に指定された改革開放区であり、1992年1月に鄧小平が楊尚昆を伴い,武漢、珠海、上海とともに外資導入による経済建設を大胆に推進するよう力説した南巡講話を施した都市である。
深圳はいうまでもなく、今日の経済成長の原動力である新興企業の通信機器大手:華為技術(ファーウェイ)をはじめ、ドローン最大手:大疆新科技有限公司(DJI)、電気自動車(EV)メーカー:比亜迪(BYD)、中国のネット大手:騰訊控股(テンセント)などが本社をおく中国の4大都市のなかで最も成長著しい都市である。
そこで深圳にいくために6月上旬に入国ルートを検討し、航空券検索をしたところ、やはり香港から入ることが一番安いことがわかり、6月中旬に成田—香港間の航空券を予約した。
当初の計画は、香港→深圳→広州→澳門→深圳→香港のルートを計画し、全ての列車と船舶及びホテルを予約した。しかし7月に入ると香港の逃亡犯条例改正に伴う香港市民の反対阻止行動が高揚し、各地で香港警察との衝突などが発生し、8月12日から反対派による香港空港ロビー占拠集会が始まり、12日に177便が欠航する事態となり、これでは香港に行けなくなるかも知れないと危惧しはじめた。
14日の段階で、キャンセルできるところはすべてキャンセルし、欠航によるリスクを回避する措置をとった。この日14日同時に香港裁判所から空港ロビー占拠禁止を命令し、ロビー占拠を解除し、香港空港の離発着の正常化がはじまり、18日のビクトリア公園集会も、許可されていなかった解散デモへの香港警察の排除措置もなく、衝突のない週末行動となった。
このような進展から、20日の段階で24日出発は間違いないとの判断と確認のもとに今回の旅程を決定した。
キャンセルできたのは、深圳、広州、珠海間の「高鉄」と広州のホテルのみであったため、広州行きは中止し、以下の日程に修正した。
行程は成田→香港(落馬洲口岸)→深圳(福田口岸)→香港(落馬洲口岸)→香港(尖沙咀埠頭)→澳門(澳門外港)→澳門(タイパ埠頭)→深圳(蛇口)→香港(西九龍)→香港空港→成田とした。()内は、出国、入国の地名。
1日目(8月24日:土)香港泊
香港には定刻午後7時40分に到着した。空港ロビーは正常に機能し、集会と占拠の形跡はまったくない。
まず通関を終えて出てきた処に両替コーナーがあり、4000円を香港ドルに両替した。市内行きの快速列車への通路にあった機場快線客務中心で、「八達通=パッダーットン」のシニアカードを170香港ドルで購入する。運賃として使える金額は150ドルである。あとでわかったことだが、このカードは、香港市内のコンビニや食堂などで使えるので、とても便利であることがわかった。
ホテルのある九龍半島側の「深水歩」駅に向かう。機場快線で「青衣駅」迄行き、ここで地下鉄(MTR)茶色路線に乗り換え、「茘景(laiking)駅」に向かい、ここで赤色路線に乗り換えて、「深水歩」駅で下車するルートである。機場からは大体50分位かかった。「深水歩」駅で、出口を訪ね、D1出口で、ホテルのある方向を訪ねて、地図を片手に、ホテルに向かった。10分程歩き、9時過ぎにホテルについた。言葉は中国語の普通語で問題ないようだ。
「深水歩」駅周辺ホテルに向かう途中に刺身を売る店があり、ビールのつまみにサーモンをかってみた。日本と変わらない食感だった。
2日目(8月25日)深圳泊
今日は香港の市内見学を済ませ、夕方にホテルに戻り、深圳に向かう予定でいたが、朝から雨が降り始めた。フロントで両替はどこでできるかを尋ねると、今日は日曜日で、両替商は休みだという。最初の失敗である。さてどうするか、まずは、市内の「中環駅」にいき、両替商を捜すしかないと判断、地下鉄でいくことにした。ホテルにバゲージを預け、5時頃までに帰ると告げて、香港の中心部「中環駅」に向かった。
中環も、外は雨のため、先ず、構内で両替を捜すことにした。構内には幾つかの中国本土系の銀行のATMがあり、両替ができることがわかった。華夏銀行の自分の口座で香港ドルを両替することができそうだと思い、操作して、まず300香港ドルをトライしたところ、手数料12元で引き出すことができた。この方法がわかれば、あとは必要に応じて引き出せばとよいと安心できた。
中環駅構内の自動両替機
最初にむかったのは、中環駅から山の手にある最近できた旧香港政府の監獄や裁判所のある「地球の歩き方」に紹介されていた「大館」という記念館である。
しかし、ここでは高徳地図は使えず、地図を頼りに向かったが、自分の方向感覚があわず、周辺を何度もうろうろして、やっと30分程掛かって、開館時間前の10時前に到着した。
この記念館は、通常の歴史館とは異なり、建物のなかに入り、資料や実物を見学できるところがなく、外から様子を伺い、昔あつた建造物を眺めるという趣向であった。これでは「無料」とはいえ、あまり意味のない記念館である。
雨のなか、四苦八苦の思いで捜した割には、あまりに内容がなく、がっかりである。11時になると裁判所館に入館できるとのことであったが、次に近くにある「孫文記念館」に向かった。ここはしっかりと案内ボードがあり、すんなりと10分程到着できた。
香港孫文記念館
ここには、香港で医学を学んだ孫文の写真を中心にしたエドワード様式の洋館を改修した4階建ての記念館である。3階は特別展示室であり、今回は、「動と醒」と題する五四運動100周年企画があり、100年前の五四運動当時の北京の写真などの特別展が開催されていた。
1919年6月4日前日の学生デモ(北京)
ここから、中環駅から中環フェリー8号埠頭にある香港海事博物館へ行こうとする頃から、雨が強まり、中環駅につくと、凄いスコールとなった。仕方なく、中環フェリーに向かう2階が通路になっているアーケードを使っていくことにした。そのアーケードは、東南アジア系の人々が路上に群れのようにたむろしていた。またアーケード上には日本軍慰安婦像が3体陳列されていた。
中環から上環に向かうアーケート中央に設置された「慰安婦像」 アーケードでたむろする東南アジア系市民
香港海事博物館は、中環フェリーの建物内で所在を確認したが、館外にあるようで、外に出たが、雨も激しく降り続けており、探索を断念した。同時に以降の訪問を断念し、深水埗に戻り、バゲージを回収し、深圳に向かうことにした。地下鉄上環駅から深水埗駅に向かい、駅周辺の食堂で食事し、ホテルに帰還し、深圳に向かった。深水埗駅で、帰り用に香港交通カード「八達通」を100ドルチャージした。
2時43分、深水埗駅から落馬洲口駅に向かう。3時50分に到着した落馬洲は、香港から深圳に入る6つの入境地点の一つである。ここから深圳河を越えて、深圳側「福田口岸」に入るルートである。4時10分頃に入管完了し、地下鉄「福田口岸駅」から地下鉄「福民駅」に向かい、ホテル着。5時過ぎにホテルの隣にある火鍋店で食事した。火鍋は1人では食べきれないので、野菜の煮込み麺をすすめてくれた。
3日目(8月26日)深圳泊
深圳の最初の訪問先は、深圳博物館と決めていたが、市民中心駅の側で交通警官にどこにあるかを尋ねると、今日は月曜日で休館だという。今回2度目の失敗である。仕方なく近くの蓮花山公園にいくことにした。ここの山頂に鄧小平の銅像があると言う。この公園は大変広くまた山頂までは急な登り坂があり、なかなか頂上に付かない。15分程してやっと銅像の前に辿りついた。
銅像の裏側に回ろうとしたところ、付近にいた警備員が近づいてきて、そこはダメだと注意された。いや銅像の裏面に必ず碑文があり、碑文を読みたいからだと釈明すると、そうかといい、碑文はないと言う。彼はその後、銅像の裏側にある大きな碑石を案内してくれた。最初は怒っていた顔がとても穏やかな顔になって、その碑文を発音してくれた。
私が日本人だと知ると、大坂には何度もいったことがあると言う。その後2人で筆談を含めて話した。彼の娘さんが現在大坂の大学に留学していること、55歳で現在の月給は3000元であること、日本語で歓迎はどのようにいうのか、日本の紙幣はどのような種類があるのかなどを話した。分かれ際に電話番号を教えてくれというので、日本の電話番号を教えた。この付近で本屋はあるかと聞くと、この側に「深圳書城」という深圳で一番大きな書店があることを教えてくれた。ここで、「鄧小平実録③1966-1982[改革開放40周年記念版](B5版304頁52元)と「華為精神」(B5版240頁45元)を買った。
次に、世界の工場として知られ、中国で最大規模の電気街であり、電子部品を扱う「華強北路」に向かう。地下鉄7号線「華強北」駅から電気街に入る。電気街の周辺は地下を含めて商店街となっており、電気製品以外の世界のブランドを含む繁華街となっていた。
電子機器製品を扱うビルに入ると、1階が閑古鳥のシャッター街のビルがある一方で、1階にテナントがひしめくビルもあり、明暗がはっきりした動きがあるのかもしれない。やはり、ここにも対米貿易の影響がはっきり現れていると感じた。この電気街の裏通りにある食堂街で食事した。
その後、地下鉄「老街駅」にある深圳の最大の自由歩行街「東門歩行街」に向かう。ここは、露天店舗は一切なく、建物のなかに小売店がところ狭しと棚を並べており、迷路のような建物がある一方で、独立したテナントの建物などが続くという感じである。街区の中央に巨大な釣鐘を吊した石塔と大きな石碑があり、ここは昔から大きな商業集積地であることがわかった。
地下鉄「老街」から東門歩行街を望む
東門歩行街
東門歩行街
地下鉄で福民駅に戻り、駅前の食堂で食事してホテルに戻った。
4日目(8月27日)香港泊
昨日閉館だった「深圳博物館」に向かう。市民センターの隣にある。ここには、昨日行った蓮花山公園や深圳図書館とともに子ども用の児童館施設もあり、市民がこの周辺に集まる場として設計されていることを実感した。
深圳博物館
深圳博物館は、古代、近代、現代の3つに区分された陳列ゾーンで構成されており、主に近代と現代ゾーンを見学した。現代は、1978年の党大会以降に開始された改革開放の特区となった深圳がどのような経過を経て、今日の「北京・上海・広州・深圳」という「北上広深」とよばれる中国の4大都市になったのかを詳細に解説した展示であり、そのプロセスをとても分かり易く解説した展示であった。ここでは詳細は触れない。後日単独で紹介したい。
次に深圳で一番高いビル「京基100」に向かう。駅の側に鄧小平の画像の写真をとり、高層ビルに向かう。
京基100ビル
このビルから深圳を一望できると思い、受付にいうと、何階にいくのかというので、最上階と言うと、ここではないと。示された右手奥の方向にいくと、最上階は午後5時以降でないと行けないと言う。どうやら、そこはホテルになっているようで、一般客が入れるところでないと察した。再び受付で写真を撮りたいのだというと、40階を案内してくれた。最初からそう言えばよかったと後悔した。
その後、再び昨日行った「華強北路」の電気街の裏通りの食堂にいき、遅い昼食をとった。この店は、「香港福」という。電気街で働く職員向けの大衆食堂である。50種程の出来たての肉と野菜メニューが用意され、食べたいメニューを指指すと大皿に装ってくれる。「打包(持ち帰り)」というとパッケージに入れて持ち帰ることができる。値段は2品から6品で11元から21元という最安値の設定である。但しご飯だけを買う場合(「蓋飯(gaifan)」は3元である。しかもスープとご飯は「ただ」、更にお代わりが自由なのである。昨日はご飯の盛りが多いため、半分位しか食べられなかったので、今日は、ご飯は要らないと言い、野菜メニューを三品とビール(青島:660粍L)(1瓶5元)を頼んだ。
深圳電気街カフェテリア食堂「香港福」の店頭(奥が店内)
深圳電気街カフェテリア食堂「香港福」の調理師
ここは、本当にひっきりなしでお客が絶えず、殆どが打包して職場で食べるようである。なにしろ「速くて、旨くて、安くて」という典型的な繁盛店である。
食事のあと、会展中心駅を経由して、福民駅に戻り、ホテルでバゲージを回収し、福田口岸を経由して、香港深水歩に向かう。夜7時過ぎにホテルに戻る。
5日目(8月28日)澳門泊
今日はジェット船で澳門に向かう。尖沙祖(チムシャツォイ駅)A1出口をでて、九龍公園を横切って、澳門に向かう中港客運埠頭に向かう。7時半発澳門行のジェット船をクレジット決済(171香港ドル)で買うことができた。
香港〜澳門を渡るジェット船
8時45分、澳門半島客運埠頭に到着した。澳門はバスしか交通手段がない。埠頭にある両替コーナーで5000円を両替し、タクシーでセナド広場に近いホテルに向かう。9時半過ぎにホテル着。バゲージを預けて、「新馬路」沿いを歩き、セナド広場を通りぬけて、大三牌坊に向かう。歩いて5分位で着いた。
セナド広場
大三巴牌坊
ここにきてみて、日本でいえば、京都の五条から清水寺に向かう参道を思い出した。通路の両脇に様々なお土産店があり、その先に清水寺の伽藍を望むという趣向である。ここのお土産のメインは「家餅記英」という薄く裂いて焼き、海苔のように固めた牛肉である。食べてみてないのでわからないが、お土産には欠かせないもののようだ。
大三巴牌坊
大三巴牌坊から隣の大砲台と澳門博物館を見学し、昼食後、ホテルで休憩し、3時過ぎに澳門地図と澳門パス(交通カード)を買うために市内を散策した。サークルKで地図を20パタカ(270円)で、「澳門通」(マカオパス)を120パタカで買った。「澳門通」はコンビニなどでの買い物にも使えるので、便利だとおもった。
「澳門通」を買ったのは、ここで高徳地図を使えることがわかったからだ。ホテルのWIFIから、訪問先を検索し、検索されたルートをスクリーンショットで保存し、それを頼りに市内バスを使って見学に行けることがわかった。
そこで、まずタイパの「管也街」にいき、そこから中国珠海側の国境である「関閘」に行く。なにしろ凄い数の広州人が澳門から珠海に帰る様子を垣間見ることができた。半端ない移動である。
澳門関閘(反対側は中国珠海)
澳門関閘から珠海側に帰宅する広州人
バスでホテルに戻り、近くの食堂で食事し、部屋で、明日の訪問先のバスルートを検索し、ルートを確認した。
6日目(8月29日)深圳泊
今日は、澳門市内を見学後、タイパフェリー埠頭から、15時半発「蛇口」行ジェット船で深圳に戻る。
バスで蓮鋒廟・林則徐記念館と国父孫文記念館へ行く。林則徐とは、1940年の阿片戦争の発端となった「阿片」の摘発と廃棄を実行した科挙である清朝の官僚である。
彼は、広州から派遣されて、珠海関閘の海に2万箱の阿片を投棄し、阿片を売らないと貿易赤字を埋め合わせができない英国政府を震撼させ、英国政府は戦艦を正式に派遣し、阿片取引の強制を意図して、澳門から香港、厦門、上海をへて、天津を至り、北京に迫った。英国は澳門がポルトガルの支配下にあることから、1942年南京条約で香港島を割譲し、香港は欧米帝国主義の極東アジアへの植民地支配の創始の地となった。
蓮鋒廟内にある林則徐記念館
国父孫文記念館は、香港で医学を学び、澳門で兄住まいに住み、開業して宋美齢との結婚の前に妻帯していた頃を中心に往時の写真が展示されていた。
国父孫文記念館
ホテルに帰る前に、市内中央にある澳門で異様な色彩を放つ「松明」をモチーフにしたカジノホテル「葡京酒店」に立ち寄った。ここは21歳以上の成人は無料で入場し、賭博することができる。私もそのまま入場することができた。3階の売店でビールを頼んだら、小瓶(330粍L)が40パタカ(600円)であった。
葡京ホテル(2008年新築・高さ:50メートル)
葡京ホテルに併設された賭博会場
2時半にタイパ埠頭に向かい、3時半の「蛇口」行のジェット船で、深圳に戻り、地下鉄を乗り継いでホテルに戻った。
7日目(8月30日)
今日は帰国日。無事帰国できることを願った。朝7時にホテル出発、生憎雨である。今回は、高鉄で香港(西九龍)に入境する。バスで福田高鉄駅へ向かう予定であったが、停留場で15分待っても来ないので、タクシーで福田高鉄駅に向かった。24元であった。福田高鉄駅から12分で、地上にでることなく、香港「西九龍」駅に着いた。高速で走る「地下鉄」である。そういえば、福田高鉄駅は地下鉄と同様なフル防護柵が設置されていた。
香港「西九龍駅」は、とても大きなターミナルであり、地図上ではよくわからなかったが、香港空港へむかう「九龍駅」へ、また繁華街「尖沙祖」へ向かう「柯士甸駅」へと、連絡通路で繋がるターミナルであった。海外から、香港空港を経由して、中国深圳に入る最短ルートであることがわかった。
香港空港はとても大きく、搭乗ゲートまで専用トラムで移動するため、20分前のゲート到着には、トラムの待ち時間を含めて、最低10分以上の余裕をみておくことが必要であることがわかった。
澳門はもう行くことはないと思うが、香港と深圳・広州は、また行くことになると思う。今回、香港は全く歯が立たなかった。市内の移動用電子アプリを見つけて、バスとトラムを使って、自由に移動できるように準備し、リベンジしたいと思った。
完
追記:
各都市の交通カード
左:マカオ「澳門通」 中央:香港「八達通」(シニア) 右:深圳交通カード
*為替レート 1香港ドル=16円、1パタカ=14円、1元=16.5円